施術部の伊藤です。
私は「人間学を探究して四十二年|致知出版社」の、毎日配信される無料メルマガを読んでいます。
2月13日(土)に配信された記事が、新型コロナが流行している今、人間の弱さを問いかける、独り一人が自分と向き合うことが大切だよ、と言ってくださっているような、大事なメッセージを感じたので、共有させていただくことにしました。
以下、メルマガ記事の内容になります。
本日ご紹介するのは、全盲ろうにして世界初の大学教授になった、福島智さんのお話。
3歳で右目を、9歳で左目を失明。
14歳で右耳を、18歳で遂に左耳の聴力までを失う――。
光と音を喪失した世界の中で、福島智さんは何を感じ、何を見出したのでしょうか。
【3月30日】
(「365人の仕事の教科書」より)
「苦難こそが人生の肥やしになる」
福島智(東京大学先端科学技術研究センター教授)
両目が見えない、両耳が聞こえないという障害を持ったことで、私は障害者のことを少しは考えるようになりました。
やはりなにがしかの関係を持ったこと、広い意味での当事者になったことがその大きなきっかけになりました。
また、自分にとっての苦悩は他者とのコミュニケーションが断絶されることでしたが、これも実際に体験してみて初めて分かったことでした。
苦悩を体験することの凄さは、苦悩の一つのパターンが理屈抜きに分かること。
もう一つは、苦悩する人たちが抱えているものを想像しやすくなるということですね。
挫折や失敗をすることはしんどいし、できるだけ避けたいけれど、おそらくほとんどの人が人生のどこかでそれを経験する。
いくら避けようとしても必ずなにがしかのものはやってくる。
だから来た時にね、
『これはこれで肥やしになる』
と思えばいいんですよ。
私が子どもの時代には、まだ日本にもたくさんあった肥溜は、臭いし皆が避けちゃうけれど、それが肥やしとなって作物を育てた。
一見無駄なものや嫌われているものが、実は凄く大切なことに繋がるということでしょう。
これは自然界の一つの法則だと思います。
同じようなことを、アウシュビッツの収容所を生き抜いた、ヴィクトール・フランクルが述べています。
彼はいつ死ぬかも分からないという極限状況の中でも、苦悩には意味があると感じていたようですが、それは彼一人だけの思いではなかった。
あの過酷な状況下で、自分以外の他者のために心を砕く人がいたように、ぎりぎりの局面で人間の本質の美しさが現れてくる時がある。
もちろんその逆に、本質的な残酷さや醜くさを見せることもありますが、人間はその両方を持っているわけですよね。
おそらく彼は、苦悩をどう受け止めるかというところに、人の真価、人間としての本当の価値が試されていると考えたんじゃないかと思うんです。
苦悩というフィルターをかけることで、その人の本質が見えてくると。
フランクルの主張で最も共感を覚えるのは、その人が何かを発明したり、能力が優れているから価値があるということよりも、その人が生きる上でどんな対応をするか。
苦悩や死やその他もろもろの困難に毅然と立ち向かうことが最高度の価値を持つ、
といった趣旨のことを述べている点です。
したがって、障害を持ったことや病気をしたこと自体に意味があるのではなく、それをどう捉えるかということ。
身体的な機能不全を経験することも、それ自体に大きな意味があるんじゃなく、
それを通して、その人が自分自身や他者、あるいは社会、あるいは生きるということを、どのように見るかが問われているのだと思います。
以上がメルマガ記事の内容になります。
皆さんは、どのように感じられたでしょうか。
私も全盲という身体上のハンディキャップがあるので、福島智さんがおっしゃっていることがよく分かります。
これは私の持論ですが、「全盲は不便だけど不幸ではない」と思っています。そして、実感しています。
私の場合、病気のことよりも、私の大きな課題が、記事のタイトルにもしました「どう受け止めるか、どう捉えるか」という、自分の利己心との向き合い方です。
でも人間は面白いもので、分かってはいてもなかなか歩みが進まない。
困ったもんだなぁ(苦笑)。けど、人間らしくていいんじゃない?頭と体が疲れたら、自分が楽しくなるような、好きなことをして、ゆっくり休んで、頭と体をリフレッシュしよう!!
と、人間力を磨きたい、自己愛を開花して、自分の本質の愛を引き上げたい、と日々葛藤している伊藤でした(^^)
大切な時間を使い、最後まで読んでくださる皆さん、いつも本当にありがとうございます。