先日の福島県沖地震では、あちらこちらに被害がでました。改めてお見舞い申し上げます。
施術に訪問しているあるお宅での出来事です。90代の女性の患者さんですが、地震が起きた時間には、ベットの中だったそうで、余りの揺れで柵をギッチリと掴んでいたそうです。
「すごく揺れたねぇ、怖かったねぇ、すごかったねぇ」とその時の思いを聞かせてくれました。揺れた時は何を思っていたのかを尋ねると、
「そうだねぇ、その時はね、やっぱり子供達のことを考えてたね。子供たちは無事だろうかと考えていたね。」
その言葉に、思わず深いため息がこぼれました。
あの激しい揺れの中、我が身も危険にさらされていたにも関わらず、その時に考えていたことは、自身の子供の身を案じていたことに、「慈愛」の本質を見た思いがしました。母親が我が子を思う愛の大きさ、深さ、広さは、空より大きく、海よりも深く、大地よりも広いものなのだなと、大きな感動を覚えずにはいられませんでした。
当院の企業理念は「慈愛の追求」ですが、今回この患者さんがその本質を教えてくれた気がしました。もっともっと慈愛の深遠さを学んでいきたいという思いが強くなりました。
これからも、患者さんから沢山の学びをいただきながら、慈愛を追求してまいります。本当にありがとうございました。
くれぐれもお元気で長生きしてください。
ドライバー部門の田村です。
先週の地震は緊急地震速報より早かったので驚きました。
東日本大震災の時の思いだしてしました。今回の地震は津波の心配は無いようだった様で少し安心しました。
皆さんのお住いは如何でしたか?
お怪我や家具などの損傷ありませんでしたか?
ニユ−スなどの報道では塀が倒れたり、高速道路の土砂崩れなど被害も広範囲に及んいました。
わたしが感じた当日の様子です。
そろそろ眠くなってきたので歯磨きでもと思っていた矢先、突然の大きな揺れで眠気も吹っ飛びました、最初は小刻みで弱めの感じでしたが段々と強い揺れに変わって長く続きました。そして3,11と大きく違う所は深夜であることで、揺れが収まるまで動けませんでした。(^_^;)
幸いにもわが家の棚にある花瓶などは何も被害はありませんでした。
東日本大震災の時も被害はありませんでした。これはひとえに地盤に起因する事と思いました。家を建てる時に色んな所を回って地盤の良さに、こだわって探したお陰様と感謝しています。
これから家建てる方吟味して捜すことをお勧め致します。
皆さんこんにちは。
地震でおケガはありませんでしたか?
被害はありませんでしたか?
報道を見ていると、水漏れや停電等の被害が出ているとこもあります。
東日本大震災から10年を迎えるときに、
今回の震度6強の強い揺れがあり、怖い思いをされた方も多いと思います。
そして、コロナ禍でもあり余計に心配が増えてしまうかもしれません。
余震も続いており、万一のためにできることから備えをしておきましょう。
今日はそれに加えて、暴風と大雨です。
栄養をとって免疫力を高めておくことや軽めの運動をしてリフレッシュすることも重要な備えです。
できることからで大丈夫です。
皆さん、くれぐれもお気を付けください。
施術部の伊藤です。
私は「人間学を探究して四十二年|致知出版社」の、毎日配信される無料メルマガを読んでいます。
2月13日(土)に配信された記事が、新型コロナが流行している今、人間の弱さを問いかける、独り一人が自分と向き合うことが大切だよ、と言ってくださっているような、大事なメッセージを感じたので、共有させていただくことにしました。
以下、メルマガ記事の内容になります。
本日ご紹介するのは、全盲ろうにして世界初の大学教授になった、福島智さんのお話。
3歳で右目を、9歳で左目を失明。
14歳で右耳を、18歳で遂に左耳の聴力までを失う――。
光と音を喪失した世界の中で、福島智さんは何を感じ、何を見出したのでしょうか。
【3月30日】
(「365人の仕事の教科書」より)
「苦難こそが人生の肥やしになる」
福島智(東京大学先端科学技術研究センター教授)
両目が見えない、両耳が聞こえないという障害を持ったことで、私は障害者のことを少しは考えるようになりました。
やはりなにがしかの関係を持ったこと、広い意味での当事者になったことがその大きなきっかけになりました。
また、自分にとっての苦悩は他者とのコミュニケーションが断絶されることでしたが、これも実際に体験してみて初めて分かったことでした。
苦悩を体験することの凄さは、苦悩の一つのパターンが理屈抜きに分かること。
もう一つは、苦悩する人たちが抱えているものを想像しやすくなるということですね。
挫折や失敗をすることはしんどいし、できるだけ避けたいけれど、おそらくほとんどの人が人生のどこかでそれを経験する。
いくら避けようとしても必ずなにがしかのものはやってくる。
だから来た時にね、
『これはこれで肥やしになる』
と思えばいいんですよ。
私が子どもの時代には、まだ日本にもたくさんあった肥溜は、臭いし皆が避けちゃうけれど、それが肥やしとなって作物を育てた。
一見無駄なものや嫌われているものが、実は凄く大切なことに繋がるということでしょう。
これは自然界の一つの法則だと思います。
同じようなことを、アウシュビッツの収容所を生き抜いた、ヴィクトール・フランクルが述べています。
彼はいつ死ぬかも分からないという極限状況の中でも、苦悩には意味があると感じていたようですが、それは彼一人だけの思いではなかった。
あの過酷な状況下で、自分以外の他者のために心を砕く人がいたように、ぎりぎりの局面で人間の本質の美しさが現れてくる時がある。
もちろんその逆に、本質的な残酷さや醜くさを見せることもありますが、人間はその両方を持っているわけですよね。
おそらく彼は、苦悩をどう受け止めるかというところに、人の真価、人間としての本当の価値が試されていると考えたんじゃないかと思うんです。
苦悩というフィルターをかけることで、その人の本質が見えてくると。
フランクルの主張で最も共感を覚えるのは、その人が何かを発明したり、能力が優れているから価値があるということよりも、その人が生きる上でどんな対応をするか。
苦悩や死やその他もろもろの困難に毅然と立ち向かうことが最高度の価値を持つ、
といった趣旨のことを述べている点です。
したがって、障害を持ったことや病気をしたこと自体に意味があるのではなく、それをどう捉えるかということ。
身体的な機能不全を経験することも、それ自体に大きな意味があるんじゃなく、
それを通して、その人が自分自身や他者、あるいは社会、あるいは生きるということを、どのように見るかが問われているのだと思います。
以上がメルマガ記事の内容になります。
皆さんは、どのように感じられたでしょうか。
私も全盲という身体上のハンディキャップがあるので、福島智さんがおっしゃっていることがよく分かります。
これは私の持論ですが、「全盲は不便だけど不幸ではない」と思っています。そして、実感しています。
私の場合、病気のことよりも、私の大きな課題が、記事のタイトルにもしました「どう受け止めるか、どう捉えるか」という、自分の利己心との向き合い方です。
でも人間は面白いもので、分かってはいてもなかなか歩みが進まない。
困ったもんだなぁ(苦笑)。けど、人間らしくていいんじゃない?頭と体が疲れたら、自分が楽しくなるような、好きなことをして、ゆっくり休んで、頭と体をリフレッシュしよう!!
と、人間力を磨きたい、自己愛を開花して、自分の本質の愛を引き上げたい、と日々葛藤している伊藤でした(^^)
大切な時間を使い、最後まで読んでくださる皆さん、いつも本当にありがとうございます。
みなさんこんにちは。
ひめさゆり訪問マッサージ鴫原です。
タイトルは院長の鈴木の座右の銘です。
院長は患者さんと関わるときに、一瞬一瞬を大切にしています。
大袈裟かもしれませんが、もしかしたら、今日が最後で最期かもしれないからです。
私は最近営業もさせていただき、ケアマネージャーさんはじめ、介護や福祉に携わる方と接する機会も増えました。
中には院長と同じ価値観を持った方がおり、皆さんの素敵な思いや価値観を聞かせていただいています。
また会える・また会えたら、という思いでいますが、頭のどこかや心の片隅には常に最期の時の事も考えて、一瞬一瞬を大切に真心こめて接していると言います。
私たちも決して他人事ではないはずです。
明日どうなるかは、誰もわからないです。
「一日は一生の縮図」
「今日を最後の日として生きる」
そのように教わっています。
偉そうなことを書いていますが、私もまだまだ易きに流されてしまう事が多いです。
皆さんはどうでしょうか?
今日が最後だったらどういう風に過ごすしますか?
私も再度意識させていただける機会になりました。ありがとうございます。
今後も成長を選択して、貢献できる幅を広げてまいります。